column
コラム
キーボードの横の、いびつな木の棒
今、僕のPCデスクのキーボードの横には、いびつな形をした2本の木の棒が転がっている。
傷だらけで、素人が削った不格好な「それ」は、今の僕を形作るすべての原点だ。
時計の針をぐっと巻き戻す。あれは、無気力な小学生だった僕が、初めて「熱狂」という病に感染した日のことだ。
半年ぶりに家に遊びに来た幼馴染は、挨拶もそこそこに、2本の木の棒を僕の顔の前に突き出した。
「ゲーセン、行こうぜ」
得意げに笑う彼を見て、僕の頭に最初に浮かんだのは強烈な焦燥だった。
(やばい、こいつゲーセンからバチをパクってきた……!)
恥ずかしい話だが、当時の僕には「ハウスバチ(備え付けのバチ)」という概念すらなかった。ましてや、プレイヤーが自前の武器を持ち込む「マイバチ」なんて裏文化を知る由もない。犯罪者を見るような目で友人を警戒しながら、僕はペダルを漕いで自転車で3分のショッピングモールへと向かった。
自転車のチェーンがカラカラと鳴る音を聞きながら、僕の脳裏にはある記憶が蘇っていた。
元々、僕は「何者でもない」子供だった。勉強もスポーツも平々凡々。WiiやDSのソフトも人並みに遊んだが、どれも長続きしない。自分の好きなこと、得意なことを語れるほどのものがなく、常に何かを探しているような空っぽの毎日。
そんな僕に、最初の衝撃を与えたのはYouTubeの画面越しに出会った「見知らぬ誰か」だった。
画面の中で、その人は軽やかに、そして恐ろしい正確さで太鼓を叩いていた。アニメのヒーローでも、テレビの俳優でもない。ただ「ゲームのプレイが洗練されている」というだけのその姿が、子供心に最高にかっこよく見えたのだ。ゲームができてかっこいい。そんな感情は初めてだった。
しかし、現実は甘くなかった。
その動画を見た数ヶ月後、冬の家族旅行。昔よくテレビCMをやっていた静岡の有名な温泉旅館でのことだ。ゲームコーナーで太鼓の筐体を見つけた僕は、無意識に吸い寄せられるように300円を投入した。
結果は惨敗だった。備え付けの分厚いバチは子供の腕には重すぎた。動画のように上手くいくはずもなく、ただ手の皮がめくれ、腕の筋肉を痛めただけ。お世辞にも「面白い」とは言えない、苦い敗北感。
旅行から帰って、もう一度あの動画を見返した時、僕はふと気がついた。
(……あの人が持ってるバチ、旅館のやつより細くないか?)
大人の手だから小さく見えるのか、それとも別の理由があるのか。当時の僕には、ただ「重かった」「つまらなかった」という感想しかなく、その違いの正体に気づくことはできなかった。
「着いたぞ」
友人の声で、過去の記憶から現実へと引き戻された。ショッピングモールのゲームセンター。電子音が入り乱れるその場所で、友人は僕に「違いの正体」を教えてくれた。
彼が持っていたのは、盗品でも魔法の杖でもない。自らの手で削り出した「マイバチ」だったのだ。
その日、彼のバチを借りて叩いた太鼓の感触を、僕は一生忘れない。
重苦しかったプレイが嘘のように軽快になり、モノクロだった無気力な日常が、極彩色のエンターテインメントに塗り替えられた瞬間だった。心の底から「自由だ」と思った。
帰り道、僕らはそのままホームセンターへ直行した。
図工の授業でしか使ったことのない彫刻刀を家から引っ張り出し、友人の家の床を木屑まみれにしながら、見よう見まねで木材を削り出した。不格好で、左右の重さもバラバラ。でも、それは紛れもなく僕が初めて手にした「自分の武器」だった。
あの日、赤と青の音符が交差するエキサイティングな世界へ飛び込んでから、どれだけの時間が経っただろうか。
キーボードの横にある、あの日削った最初のマイバチ。
ただの平凡な小学生だった僕に「熱狂」を教えてくれたこのいびつな木の棒は、今夜も僕の新たな挑戦を、静かに見守っている。
